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演劇×(教育×地域×採用)

花まる学習会王子小劇場の企画発起人の佐藤孝治の観劇ブログです。

王子小劇場が出来るまでの物語

王子小劇場が出来るまでの物語

王子小劇場は、2016年6月1日から花まる学習会王子小劇場になりました。名前が変わった経緯についてはこちらのブログで詳しく書きましたが「王子小劇場をなぜ創ったのか?」や「王子小劇場立ち上げの経緯」については、書いたことはありませんでした。

玉山悟さんがあたしが王子小劇場にいたころ~疾風篇~で劇場をオープンしてから稼働率を100%にするまでの思い出について書かれています。

その中で「佐藤佐吉さんの逸話はたくさんあるが、それは別の機会に佐藤家の家族にでも聞いていただきたい」という玉山さんからの前振りがありました。劇場が出来るまでの経緯を知っている関係者は少ないので、王子小劇場がオープンするまでの物語を書いてみます。 

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概要

王子駅前にある佐藤電機の店舗と倉庫を立て替え、地下を倉庫にするという計画を聞いた佐藤孝治が、駅前に倉庫はもったいないと考え、「この場所に劇場を創るべきだ」と一念発起。初代王子小劇場代表・芸術監督となる玉山悟とともに立ち上げた。

正式名称 花まる学習会王子小劇場
旧名称 王子小劇場
完成 1998年7月1日
開館 1998年7月7日
開館公演 北区つかこうへい劇団こけら落とし公演3本立て〜[1]
収容人員 94人
旧用途 倉庫
運営 佐藤商事
所在地 東京都 北区王子1-14-4 B1F

王子小劇場についてWikipediaにはこのように書いてあります。まとめてくださった方あありがとうございます。すこし、違うところがあります。

「旧用途 倉庫」というところは違います。新築で劇場を創ったので旧用途というのはありません。確かに、最初の計画の時の設計図には「倉庫」とありましたが、計画の段階で変更しました。

「僕いま劇場作ってるんだけど相談にのってくれないか」と玉山悟さんに相談した日

写真を整理していたら、玉山さんに劇場を作る相談をした頃の写真が出てきました。

よく覚えていないが打ち上げの席だったろうか。佐藤孝治から「僕いま劇場作ってるんだけど相談にのってくれないか」といわれた。

それを聞いたあたしは「あ、この人は勘違いをしているな。『劇場をつくる』と『劇団をつくる』を混同しているな」と思った。そりゃそうでしょ?劇場つくってる人なんて会ったことなかったもん。いや、会ったことある人少ないよね?

相談のため、といって呼び出された王子で、ヘルメットかぶって工事現場入ったときに、『あ、この人ホントに劇場つくってるんだな』と思った。

あたしが王子小劇場にいたころ~疾風篇~

その時の写真がこれです。

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ここでご飯食べている時に、玉山さんに「僕いま劇場作ってるんだけど相談にのってくれないか」と言ったと思います。

私は一番手前にしゃがんでいますが、玉山さんは一番右の女性の隣にいます。

この時、私は大学生で、既に実家の建物は建築が始まろうとしていました。劇場を作ることは決まっているものの、劇場の名前も、どんな風に運営して行くのかも決まっていませんでした。「劇場を作る人が演劇のことを分かっていないと良い劇場はできない」と思い、自分が演劇を体験して見たいと思って、早稲田大学の構内に貼ってあったチラシを集め「劇団へらじか旗揚げ公演。劇団員募集」というチラシが気になったので池田繁さんに電話をしました。

池田さんに初めてお会いしたのは、早稲田大学第二学生会館でした。「あっ、池田です。よろしくお願いします」という挨拶をしたのが初めての出会いでした。

池田繁さんは、自分には無いもの持っていました。自分が表現したい世界があって、一生懸命それに挑戦しようとしていました。「何もしないということをしたいんです」という話を聞いて「おや、これは、一体どうしたいのだろうか」ということを一瞬思ったのですが、とにかく、池田繁さんのやりたいことや作りたい世界を、役者として役割を果たしてみたいと思って参加していました。 

これは、しばらくしてから知ることになるのですが、大学に入学して以来の謎だった出来事の仕掛け人が池田繁さんでした。「立て看とだけ書かれてた白い立て看が大量にキャンパスに出現したことが一年生の頃にあったけど、あんなことをする人はどんな人なんだろうとずっと気になってるんだよね」と話をしたら、「あっ、それ作ったの僕です」と池田さんに言われた時、早稲田大学って凄いと思いました。「集り散じて 人は変れど」と校歌にありますが、本当にいろいろな面白い人と繋がりができました。大学の価値っていろいろとあると思いますが、人との出会いというのが自分には大きかったです。この立て看のことをふと思い出して、先日、こんなつぶやきをしました。

1996年の夏は、ジャージにTシャツ姿で早稲田大学第二学生会館で演劇の稽古をしていました。劇団へらじかは、おそらく劇団がやっている典型的なこと(僕は初めての劇団体験なのでそれが典型的なのかは良くわからないが、池田さんが「これは演劇の基本です」というようなことを言っていて「へー、これが基本なのか」思って嬉しかった記憶があります)をきちんとしていました。準備運動してから、外郎売りをみんなで練習してました。当時は「外郎売り」を全部言えました。

拙者親方と申すは、お立ち会いの中に、
御存知のお方も御座りましょうが、
御江戸を発って二十里上方、
相州小田原一色町をお過ぎなされて、
青物町を登りへおいでなさるれば、
欄干橋虎屋藤衛門、
只今は剃髪致して、円斎となのりまする。

いまは、ここまでが限界です。

劇団へらじかとチラシとじゃマールのお陰で玉山悟さんと出会いました

 劇団員で稽古しているところへ、登場したのが、玉山悟さんでした。

「あっ、どうも照明を担当します玉山です」という自己紹介をしながら第二学生会館の部屋に入ってきました。初めて玉山さんに会った瞬間です。大きなリュックをしょっていて、みんなの稽古を、嬉しそうに眺めていました。玉山さんと雑談していると、雑誌じゃマールに「劇団旗揚げ公演。照明求む」という情報が載っていて連絡をしたと言っていました。

たぶん、じゃマールを知らない人も沢山いると思いますので、ちょっとじゃマールについてご説明しておきます。じゃマールは、1995年11月から2000年6月まで日本で発行されていた月刊雑誌で「パーソナルアドマガジン」で、個人と個人が売買したり、仲間を募ったりするメディアでした。情報を見て「じゃあ、これにマルをしておこう」と言いながら赤丸をつけているから「じゃマール」という名前なんだろうなと当時思っていましたが、そういう由来かどうかは定かではありません。いまでは、みんな、インターネットを使ってやっていることを、当時は雑誌を使ってやっていたんですね。

友達募集、サークル仲間募集、交際相手募集などの情報が満載で、こんな情報のっていて大丈夫なのかいなと思うような感じでした。大学入学してサークルを探す雑誌「Milestone Express」とか「ワセクラ」を全国規模で展開している感じでした。インターネットの普及と共にその役目を終えて廃刊されるのですが、1996年当時はそんなじゃマールが機能していたのです。劇団へらじかとチラシとじゃマールのお陰で玉山悟さんと出会うことができたのでした。ありがとうございます。

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こういう感じで、劇団の旗揚げに参加をして、演劇に関わっている人と繋がっていきました。それまでは、演劇を観る人でしたが、演劇を創る側の人たちと触れて、やっぱり演劇っていいなあと思っていました。本番の舞台で芝居を演じて、お客さんに見てもらう時間も演劇ですが、本番に向けて仲間と一緒に創り上げて行く時間やプロセスもまた演劇なんだなあと思いながら稽古していました。

そして「玉山さんはただものではない」という第一印象は「やはりただものではない」という確信に変わって行きました。稽古の後に、一緒にご飯を食べたりしている時に、演劇とか劇団とかお話をしました。その時に「僕いま劇場作ってるんだけど相談にのってくれないか」と相談をしました。数日後、王子のマンションと店舗の工事現場に来てもらって、ヘルメットを被り地下空間を一緒に見学をしました。

王子小劇場になる前に何があったのか

 王子小劇場の敷地は「T」の字形になっています。王子銀座商店街側が「T」の下の部分で、裏側の王子佐藤ハイム側が「T」の上の部分になっています。表側が狭くて、奥に行くと、広がって行く形になっています。王子銀座商店街側が「T」の下の部分の劇場がある場所には、木造2階建ての佐藤電機の家電販売の店舗がありました。木造2階だての建物だったので、地下室はありませんでした。ですので、王子小劇場の前には、佐藤電機の店舗の下の土がありましたというのが答えです。

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そして、奥の部分にあたる「T」の上の部分には何があったのかと言えば、そこには、佐藤電機の倉庫と王子ゴルフクリニックセンターという50ヤード程のコンパクトなゴルル練習場がありました。ラーメン屋さんの弥生亭本店側にあった倉庫の上の空間に鉄塔が建てられて、網が張られていて、マンションのサンライズ王子側にゴルファーの打席がありました王子小劇場のオープン当時2階で営業していた物語バー狐の木のバーカウンターあたりから、現在のラーメン店弥生亭のあたりに目がけてお客さんがゴルフボールを打ち込んでいました。

現在の佐藤ハイムの入口あたりが、王子ゴルフクリニックセンターの入口でした。入ってすぐの場所に石油ストーブがあって、いつもヤカンにお湯が湧いていました。その石油ストーブでお餅を焼いてもらって磯辺焼きを作ってもらっていました。

現在の劇場の裏口になっていて、機械式駐車場の入口のあたりには、無料で使えるパター練習場がありました。結構、本格的なパター練習場でした。その本格的パター練習場を取り囲むように座れるようになっているのですが、パター練習場の人工芝がそのままつながっていて、椅子になっていました。練習を終えたお客さんと、これから練習するお客さんがそこで雑談をしていて、楽しそうにしていました。

石油ストーブがおいてある場所から、左に行くと、受付がありました。そこで受付をして2階に上がって行くと、ゴルフの打席が10打席くらいありました。3階の打席もあるのですが、自分の球がどんな感じで飛んだのかをちゃんと確認するためには、2階の方が良いので、2階が人気でした。3階の打席に立つと勢い余って下に落ちてしまうのではないかという感じで怖かった記憶があります。

2階にはコカコーラの自動販売機がありました。瓶コーラとか瓶ファンタを販売している自動販売機で、自分が幼稚園児だった頃はたしか60円くらいだったように記憶しています。お金を入れて、ボタンを押すと「ビー(電子音)、ガラガラドコン(瓶の音)」という凄い音がしていたことが思い出されます。

音で言うと、王子有線の有線放送がずっと流れていました。最新のヒットソングをトランペットとかサックスとかで演奏するタイプの曲がずっと流れていました。JAZZな感じで、岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」、 沢田研二の「勝手にしやがれ」、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」が流れていました。聞き飽きると、リクエストチャンネルに切り替えて、リクエストセンターに電話をしてイモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」をリクエストしたりしていました。

私は、幼稚園児の頃からお手伝いをしていました。溜まっているゴルフボールをトンボで集めて、機械の吸い込み口に流して行くお仕事でした。その仕事が終わったら、基本的には仕事は終わりなのですが、お客様に熱いおしぼりを出したり、球を出したり、ドリンクを買ってきてあげたりしていました。時々、チップをもらっていました。チップは相当もらっていたように記憶しています。この頃の労働体験は自分のベースになっていると思います。祖父のシナおばあちゃんに接客のやり方を教えてもらっていました。私は、今で言うところのインターンシップ初体験は幼稚園の年少の時だったということになります。

ちなみに、この場所に王子ゴルフクリニックセンターがあったことの名残がネット上にあります。おそらく、ゴルフ練習場データベースに残っていたのだと思いますが、ゴルフホットラインというサイトに王子ゴルフクリニックセンターが存在していることになっています。

このブログを書きながらいろいろな記憶が蘇ってきました。佐藤電機の店舗と佐藤電機の倉庫と王子ゴルフクリニックセンターの真ん中に不思議な空間がありました。トタンの屋根があるので、雨はしのげるのですが、半分外みたいな空間です。

そこには、佐藤電機のお客さんから回収してきた廃家電と段ボールと発砲スチロールを一時的においておく場所がありました。隣接して、回収されたゴルフボールが流れてきて、水で洗浄して2階と3階にまたゴルフボールを上げて行くという機械もありました。この機械がずっと見ていても飽きなくて、よく見ていました。水と油が混じった独特の匂いを発していて、かなり大きな機械音を発しながらせっせとゴルフボールを洗って運んで行きました。時々機械の調子がおかしくなるのですが、程よくある場所を叩くと直るので、良く叩きに行ってました。ヒマな時間には廃家電を分解して部品を取り出して機械の研究をしていました。

 中学生くらいの頃からは佐藤電機の家電店舗でアルバイトをしていました。特に忙しいのは夏で、クーラーの取付けのお手伝いをしていました。いつも、朝礼をした後に、オロナミンCを社員さんから頂いて飲んでいたので、未だにオロナミンCを飲むと、夏の暑い日のクーラーの取付けの映像が浮かんできます。むちゃくちゃ元気だった頃の身体感覚が呼び覚まされるので、勝負時にはオロナミンCを飲んでいます。あの夏の記憶と今の自分をシンクロさせて元気をチャージしています。まさに、元気はつらつオロナミンCという感じです。

王子小劇場の敷地の「T」の上の部分はこのように佐藤電機の倉庫と王子ゴルフクリニックセンターがあったのでした。

完全に余談ですが、お隣のマンションのサンライズ王子は、銭湯でした。小学校の同級生の小林さんのご実家で入りにいくとたまに番台に座っていました。気持ちがよい銭湯でした。銭湯は「王子泉おうじせん」です。このブログを同級生の旧姓小林さんが見てくれて教えてくださいました。ありがとうございます。

こちらの写真も小林さんからいただきました。王子泉は緑色の屋根と煙突が目印です。その奥にゴルフ練習場の打席の屋根があり、緑色のネットがあります。現在の花まる学習会王子小劇場は「ほりぶん」という黄色い看板のすぐ下のあたりにある瓦屋根のところの後ろの地下にあります。

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マンションの名前がサンライズ王子なので「日の出湯」だったのかなと想像しているのですが、調べても分からなくて、正確なところは分かりません。ご存知の方がおられたら教えて頂きたいです。

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私と演劇の関わりについて

私と演劇の関わりを振り返りますと、幼稚園のクリスマス会の「イエスキリストの誕生」という演劇で羊飼い役をやったのが最初でした。当時は子供が多くて、公立の幼稚園には入れず、教会が運営している幼稚園に通っていました。「世界ではじめのクリスマスはユダヤのはずれのベツレヘム」という賛美歌は覚えていますが、セリフは覚えていません。セリフは無かったのかもしれません。

小学校の学芸会では1年生の時に「浦島太郎」の芝居で浦島太郎役という主役に抜擢されました。登場して亀をいじめる子供達に「こら、お前達、何をしているのじゃ」と言いながら登場したように記憶しています。

小学校5年くらいの学芸会では、お寺のお坊さんを演じました。檀家さんの所からお寺に戻る時に狸を捕まえる罠にかかってしまうというシーンのセリフで一生懸命覚えました。「はてさて、思わぬご馳走に預こうて、えろう、遅そうなってしもうた。さだめし珍念め、さぞ、寂しがっていることじゃろうて。あっ、そうそう、ぼたもちがまだ5つあるはず。わしが3つに珍念が2つ、いや、わしが2つに珍念が3つ。いや、それはいかん。わしは師の坊じゃで、わしが3つに珍念が2つ。それでいいそれでいい」と言った時に狸取りの罠にかかり倒れてしまいます。33年程やってもセリフを思い出せるということは、相当真剣に覚えたんだなあと思います。

小学校の体育館に舞台を建て込んでやる演劇を見たという記憶があります。内容は思いだせないです。はやり、自分で演じると記憶に残るんですね。中学、高校は演劇とは関わりの薄い時代でした。中学時代と高校時代は8mmビデオカメラで映像作品を創っていました。高校の文化祭では「俺たちの空を返せ」(1994年)という作品を発表しました。大きな地震が発生して東海発電所で事故が発生して、南下しようとすると道路が封鎖されていて逃げ出せない。そういう作品でした。

早稲田大学に入学して早稲田大学映画研究会に入りました。自分で監督をしたり、先輩の映画の助監督とか照明助手とかカメラマンとかしていました。役者として参加した作品がPFFにノミネートされて、日比谷シャンテで自分が出ている映画が上映されたことがあります。休憩時間に廊下ですれ違った桃井かおりさんに「あんた、見たわよ」と言ってもらえたのは、学生時代のよき思い出です。

その時の映画がこちらです。

『東村山8ミリ劇場/男心女心』監督:若泉太郎 WOWOW賞(撮影賞)

この監督、最低で最高です。
主人公・若泉は大学の仲間と映画をつくっているが、監督であるにも関わらず、わがままで無軌道な性格から信頼がまったくない。完成した作品もない。あるのは、ケンカが強いらしい、ゴキブリを食べたらしい、といった噂ばかり。若泉は映画にリアリティを求めると言うが、リアリティが何なのかはわからない。変化がないように見える日々。しかし彼の何かが人を傷つけるのと同じくらい、何かが人を魅きつけ、映画づくりは続いてゆく。
構成、演出、カメラワーク等、練り上げられた二重構造が、自称「個人史映画」の枠を超え、フィクションとノンフィクションそれぞれの醍醐味を感じさせる。

1995年/8ミリ/カラー/53分
監督・脚本:若泉太郎
制作:若泉太郎、神谷敦仁 撮影:若泉太郎、増田庄吾 音響:若泉太郎、鶴岡慎一郎 協力:高田牧舎、早稲田大学映画研究会
出演:若泉太郎、津田牧子、佐藤孝治、高桑泰彦、秋山恭子、田才知矢子、増田庄吾、鶴岡慎一郎

 PFFアワード1995|PFFアワード|ぴあフィルムフェスティバル(PFF)公式サイト

 それで、当時の映研は、女優さんが少なくて、日大芸術学部の女優さんに映画に出てもらうことがよくありました。お知り合いに日芸の女優さんが多くいると、彼女達が演劇の舞台に立つ時には、お誘い頂き、良く下北沢とか池袋とかに行っていました。その時にいつも「劇場には若いエネルギーが充満している」と思っていました。映画の上映会よりも演劇の舞台の方がパワーがあるなあと思っていました。映画も好きでしたが、演劇も好きでした。

なぜ王子に劇場を創ろうと思ったのか

ある日、家族で晩ご飯を食べた後に父が「駅前のお店とゴルフ練習場を、新しいお店とマンションに建て替える」という話をしながら、大きくて分厚い設計図を見せてくれました。どんな場所になるのか興味津々で設計図を見ていました。1階と2階部分が店舗で、その上はマンションというものでした。そして、地下の部分の「倉庫」という文字を見つけました。かなり広い空間でした。

ちょうどその頃、演劇をしょっちゅう見ているタイミングでした。「劇場には若いエネルギーが充満している」という自分の体験と、新しい建物の設計図の「倉庫」という文字が繋がりました。「地域の為に祖父佐藤佐吉が残してくれた土地であれば、王子の街を元気にする場所、活性化する場所を創るべきなんじゃないか。倉庫は駅前に無くてもいいんじゃないか」という想いが沸き上がってきました。

私「お父さん、なんで駅前に倉庫を作るの?」

父「そりゃ、電気屋をやるには倉庫が必要だ」

私「せっかくの駅前の場所だから王子を活性化する場所にした方が良いと思う」

父「活性化?じゃあ、何を創るんだ?」

私「劇場を創ると良いと思う。演劇をやる劇場が王子にあったら良いと思う」

父「劇場なんで、素人ができるもんじゃないだろう」

このような会話が、設計図を見せてもらった時にありました。しばらく、劇場計画は前進しなかったのですが、母が賛成派で「いいわねえ、とっても面白いわ」と言ってくれていました。「ぴあmapホール・劇場・スタジアム」を観て、「北とぴあ王子シネマ、王子100人劇場」が載っていて、ここに新しい劇場が出来たら載るんだろうなあと思ってワクワクしていました。とはいえ、劇場を創るリアリティーはありませんでした。

ある日、

父「おい、劇場を創る計画はどうなっている?」
私「えっ、創ることになったの?」
父「なんだ、計画進んでないのか。劇場を創る計画をまとめなさい。」

という会話があり、王子に劇場を創るプロジェクトがスタートしました。

劇場を創ることが決まってから玉山悟に出会うまで

劇場を創ることが決まってから、まず最初にやったのは、演劇をやっている人にお集り頂いて「これから劇場を創ろうと思っているのですが使う側の視点で、こんな劇場があったら嬉しいを教えてください」という場を作りました。劇団高円寺爆弾クラブにて俳優修行を積み、早稲田大学映画研究会の自主制作映画『きままちゃんはあんたたちじゃないからのぼるのぼる』に主演されていた松梨智子さんからいろいろとご意見を頂きました。

  • 楽屋は出来るだけ大きい方がいい
  • 楽屋にシャワーがあった方がいい
  • 楽屋にトイレがあった方がいい
  • キャットウォーク(通路)があると便利
  • 天井が高いのは演劇には重要

など、沢山のご意見、ご要望を出して頂きました。

頂いたご意見を、設計を担当してくださった一級建築士にお話をすると、目の前で、じゃあこんな感じかなあ、あんな感じかなあと言いながら、シャープペンシルでノートにラフなパース絵を描いて行きます。目の前で言ったことが、具体的なイメージになって行きます。いろいろとディスカッションをしたら「それでは設計してきます」と言って、スケッチを持ち帰ります。しばらくすると、劇場部分の「設計図」と「奇麗に書かれたパース絵」と「模型」が出来上がってきます。そして、また打ち合わせをするということをして行きました。

いろいろと聞かれるけれども、こんな劇場にしたいということを伝えるには、自分で演劇をやってないとわからないと思って、早稲田大学の構内に貼ってあったチラシを集め「劇団へらじか旗揚げ公演。劇団員募集」というチラシが気になったので池田繁さんに電話をしました。

上述したように、そこで、玉山悟さんと出会いました。

そして「僕いま劇場作ってるんだけど相談にのってくれないか」と相談をしました。数日後、王子のマンションと店舗の工事現場に来てもらって、ヘルメットを被り地下空間を一緒に見学をしました。その後、劇場の立ち上げ手伝ってもらえることになり、都内の劇場(大塚ジェルスホール、萬劇場、シアターグリーンなど)にアポイントをとって一緒に巡りました。

「これから小劇場を王子に創ります。見学をさせて頂けませんか。また、運営についてもお教え頂けませんか」というお願いをした所、皆さん快く受け入れてくださいました。丁寧にご案内頂き、いろいろと教えて頂きました。劇場運営のコツとか、運営体制とか、とっても丁寧に教えてくださいました。その時はありがとうございました。「しかしまた、なんで劇場を創るの?大変だし、儲からないよ」と言われたことがとても印象に残っています。

この辺りから、玉山さんがリーダーシップを発揮してくれて、王子小劇場が形になっていきました。この先は、あたしが王子小劇場にいたころ~疾風篇~に続きます。

長い長い階段を降りて踊り場、低いくぐりとロビーをぬけるとがらんとしたコンクリの巨大な空間に出た。作業灯がところどころにさがっている。

「僕はねぇ、ここを劇場にしたいんだよ」と佐藤孝治。

内装も設備もないコンクリートの空間を見て、けどあたしは「これはいける!」と思った。適度な広さとタッパの高さ。駅からも近い。こんな劇場空間は都内にない。この空間なら東京の小劇場演劇を変えられると思った。

それから、あたしはこの空間に17年関わることになる。  

あたしが王子小劇場にいたころ~疾風篇~とあわせて読んで頂くと良いインタビュー記事があります。連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」最終回(第14回)です。劇場ができてからのお話が詳しく紹介されています。

王子小劇場が出来るまでの物語は以上となります。ご質問がありましたら、コメントやメッセージを頂けたらありがたいです。ご質問やコメントをふまえて加筆修正して行きたいと思っています。ご覧頂きましてありがとうございました。


追伸
佐藤佐吉さんの逸話はたくさんあるが、それは別の機会に佐藤家の家族にでも聞いていただきたい」という玉山さんからの前振りに答えて 
佐藤佐吉演劇祭・佐藤佐吉賞の佐藤佐吉とは誰かを書きました。